★「考えさせる」「元気がわく」「役に立つ」「視野が広がる」「楽しめる」
とにかくパワフルな映画である。最近の日本映画は、極小の世界で「友人や家族や好きな人に気持ちが通じるかどうか」、「自分は独りぼっちではないのか」という繊細な問題を扱うか、後はテレビ映画をそのままスクリーンに移したような作品が主流。そういう中にあって異彩を放っている井筒監督の、そしてシネカノンの最新作である。
前作「パッチギ!」は基本、女性には苦手な乱闘シーンたっぷりの青春ケンカ映画だった。でもその中に、状況の不条理さをケンカで解消するしかない朝鮮高校生たちの体当たりの日々と、大状況とは違うところで彼らと友情を結ぶ日本の高校生の、切なくて前向きの青春像を描き出した。その周囲に、社会の現実にあらがおうとする志を持った大人がいるところが秀逸だった。
この続編をどうつくるのか。大注目の中で公開されたこの映画が、また痛快の一語なのだ。舞台は1974年、高度経済成長を終えたオイルショック後の東京。整い始めた社会システムの中で、今なお居場所を見いだせない在日の若者達の焦りと未来への希望を、70年代の濃厚な雰囲気と共に伝えている。
今回彼らと友情を結ぶのは、高度成長とは無縁の子供時代を過ごした旧国鉄職員だ。彼もまた、豊かさから取り残された層だった。そして、孫が病に苦しむのは自分が白蛇を殺したせいだと悔やみ、多額の金を払ってお祓いを頼む一世の祖母。日本社会に居場所を見つけようとする二世は、情は厚いがこういう親と日本社会の現実とのはざまで、呻吟するしかなかった。
しかし、この映画は単に朝鮮半島出身者の苦労話ではない。彼らを通して、そして彼らと交わる日本人を通して、戦後日本を描いた物語なのである。細部が丁寧に描き込まれ、各所で笑いを誘う。70年安保をめぐる最後の政治闘争が終わり、長髪と(当時はベルボトムと言った)ブーツカットパンツがはやり、なぜか佐藤首相がノーベル平和賞を受賞した、ギャグのような時代だった。
また前作の時も感じたのだが、朝鮮の言葉と日本語が入り交じる会話がとても面白いのである。私の母は奄美大島の出身で、会話の中によく島の言葉が出てきた。叔父と話す時は母が島の言葉、叔父が東京の言葉で話していた。
実は全国津々浦々で東京の言葉が話されるようになったのは、そんな昔のことではない。こういう多言語生活は普通だったのである。言語を統一するというのは経済と効率に関わる問題であって、東京弁どころか世界が英語圏になりつつある今日この頃。コミュニケーションが容易になることと引き換えに、失われるものも大きい。
ところで、この映画の隠れた主役はアンソン、キョンジャ兄妹の亡き父である。1924年、日本統治下の済州(チェジュ)島に生まれた父は、日本軍による徴兵から逃れ、太平洋の島に逃げる。このヤップ島における皇民化教育の様子は衝撃的だ。島の子供達は鳥居に向かって頭を下げる。幻の大東亜共栄圏がそこにある。
2007年日本映画 監督:井筒和幸 配給:シネカノン
2007年05月24日
2007年05月17日
韓米自由貿易協定と韓国映画
韓国がアメリカと自由貿易協定を結んだ。関税その他の通商制限をはずし、韓米間で物品やサービスが、何の障害もなく流通できるようにするためだ。理論上は素晴らしいのだが、実際には数々の問題が生まれる。任期が残り少なくなった盧 武鉉(ノ・ムヒョン)政権の、捨て身の賭けである。
この「物品やサービス」の中には映画も含まれる。これまで韓国では、スクリーン・クォーター制度によって国産映画が保護されてきた。スクリーンの四分の一、年間146日以上を韓国映画のために確保するというシステムだ。1987年の民主化宣言、93年以後の文民政権のもとで韓国映画が躍進した理由の一つに、この保護政策があった。
しかし、今回それが半減されたのである。その影響はさっそく出てきたようだ。韓国映画が、観客動員数の上位に並ばなくなってきたのである。トップ3にはハリウッドの大作が並んでいる。観客が選んだ結果だと言ってしまえばそれまでだが、私の心中は複雑である。
誰にでもわかる高い娯楽性、スケールの大きさ、お金のかけ方。ハリウッドの力は飛び抜けている。グローバル経済の拡大と共に、その力は増すばかりだ。国際競争力がまだ弱い韓国映画には辛い試練になるだろう。日本は昨年、日本映画の興行収入が洋画のそれを上回ったが、ここまで来るには大変だった。今は日韓共に「スパイダーマン3」が一位だ。よくできた娯楽作品だが、そこまでの映画だとは思えない。
むろん、自由貿易は長い目で見れば市場の活性化につながると思う。韓国映画界に外資が流入してくることも有り得る。しかし、東欧の映画界は市場経済化から十数年、いまだに立ち直れない。人々がハリウッド映画に飽きるまで押され続けるのだろう。
韓国映画も、現代史見直しものを中心に佳作を放ち続けた時期が終わって、次の段階に移行しつつある。スターに頼った安易なつくりも目立ってきたから、ここで体制を整える必要がある。そういう契機にはなると思う。韓国ならではの映画をつくっていけば、観客はついてくるだろう。
韓国映画躍進の力は何と言っても、民主化世代の頑張りだった。昨年公開された「グエムル」「トンマッコルへようこそ」「王の男」には、そんな韓国映画のパワーと心意気がみなぎっていた。韓国映画の魅力はやはり、社会と向き合う姿勢にある。それは日本映画が失って久しいものだ。これからの、韓国映画の健闘を祈りたい。
この「物品やサービス」の中には映画も含まれる。これまで韓国では、スクリーン・クォーター制度によって国産映画が保護されてきた。スクリーンの四分の一、年間146日以上を韓国映画のために確保するというシステムだ。1987年の民主化宣言、93年以後の文民政権のもとで韓国映画が躍進した理由の一つに、この保護政策があった。
しかし、今回それが半減されたのである。その影響はさっそく出てきたようだ。韓国映画が、観客動員数の上位に並ばなくなってきたのである。トップ3にはハリウッドの大作が並んでいる。観客が選んだ結果だと言ってしまえばそれまでだが、私の心中は複雑である。
誰にでもわかる高い娯楽性、スケールの大きさ、お金のかけ方。ハリウッドの力は飛び抜けている。グローバル経済の拡大と共に、その力は増すばかりだ。国際競争力がまだ弱い韓国映画には辛い試練になるだろう。日本は昨年、日本映画の興行収入が洋画のそれを上回ったが、ここまで来るには大変だった。今は日韓共に「スパイダーマン3」が一位だ。よくできた娯楽作品だが、そこまでの映画だとは思えない。
むろん、自由貿易は長い目で見れば市場の活性化につながると思う。韓国映画界に外資が流入してくることも有り得る。しかし、東欧の映画界は市場経済化から十数年、いまだに立ち直れない。人々がハリウッド映画に飽きるまで押され続けるのだろう。
韓国映画も、現代史見直しものを中心に佳作を放ち続けた時期が終わって、次の段階に移行しつつある。スターに頼った安易なつくりも目立ってきたから、ここで体制を整える必要がある。そういう契機にはなると思う。韓国ならではの映画をつくっていけば、観客はついてくるだろう。
韓国映画躍進の力は何と言っても、民主化世代の頑張りだった。昨年公開された「グエムル」「トンマッコルへようこそ」「王の男」には、そんな韓国映画のパワーと心意気がみなぎっていた。韓国映画の魅力はやはり、社会と向き合う姿勢にある。それは日本映画が失って久しいものだ。これからの、韓国映画の健闘を祈りたい。
2007年05月10日
シネコンの思想〜システム依存社会
ここ数年、日本列島を席巻している感があるシネマコンプレックス(複合映画館)、通称シネコン。全国に広がり、減る一方だったスクリーン数を久し振りに押し上げた。ただ、主に郊外のショッピンセンター内に設置されていることもあり、私は行ったことがなかった。
初めてシネコンで映画を観たのは、六本木ヒルズ内のTOHOシネマズ六本木ヒルズ。長くて言いにくくて、覚えにくい名前だ。ズが語尾に二度つくところなど、英語の授業を思い出す。
あらかじめ混雑状況もわかるしネットで予約もできるが、飛び込みができない。場内に入ってスクリーンの大きさを確認し、人が座っている様子を見て座席を決めるということもできない。一長一短だと思った。
先日、新宿に初めて出来たシネコン、バルト9に行った。チケット売り場に着いたのは上映開始15分前。平日の昼間だったが、学生達が行列をつくっていた。見ると受付四ヶ所のうち、二ヶ所しか稼働していない。時間はどんどん経つ。結局、上映時間を5分過ぎてやっとチケットを購入。ポップコーンを買ったりして、座席についたのは予告篇も終わりかけた頃だった。
場内はがらがらで、改めて腹が立ってきた。上映開始15分前に到着すれば、余裕で観られたはずである。複数の映画館の座席を一ヶ所で決めるため、時間はかかるは効率は悪いは。それにしても、どうして二ヶ所しか稼働していないのか。人件費の削減か、バイトが見つからないのか。週末に家族で行く郊外ではともかく、都心では不便極まりないシステムである。
それなのに、一度シネコンが時流ということになると、どこもかしこもシネコン。最近はシネコンにならって、普通の映画館でも入口で座席を決めるところが出てきた。入ってみれば観客はパラパラだったりして、どういう意味があるのか理解に苦しむ。そもそもアメリカの郊外で始まったシステムを、どうしてそのまま日本に移植するのか。
何よりも万事システムで動いて、個人の裁量がきかないのが最大の難点だ。考えてみると、こういう場面が増えているのである。スターバックスコーヒーも、ある意味でそうだ。スタバが出来た当初、中高年はなかなか入らなかった。システムに馴染めなかったからだ。コーヒー一杯飲むのにもシステムを理解しなければならないことに、「融通の効く」社会で育った中高年は戸惑ったのである。
気がついてみれば、世の中すっかりシステム依存社会になっている。理由は、混乱とリスクの回避。ハプニングを恐れる日本人の気質に合致したらしく、個人の裁量範囲は狭まる一方だ。
万事システムで動くから、個性も考える人間も必要ない。本当は功罪を踏まえた上で、人間がシステムを使いこなしていかなくてはならないのだが、そんな力量のある人間は滅多にいないし、そういう人間を育てる教育にはなってはいない。そういう問題意識さえ共有されていないのである。
かくして、私たちはシステムに振り増されながらも徐々に適応し、社会で生きていくということはシステムに適応することと同義になる。70年前にチャップリンが「モダンタイムス」で描いた状況が洗練されると、こういうことになるわけだ。
初めてシネコンで映画を観たのは、六本木ヒルズ内のTOHOシネマズ六本木ヒルズ。長くて言いにくくて、覚えにくい名前だ。ズが語尾に二度つくところなど、英語の授業を思い出す。
あらかじめ混雑状況もわかるしネットで予約もできるが、飛び込みができない。場内に入ってスクリーンの大きさを確認し、人が座っている様子を見て座席を決めるということもできない。一長一短だと思った。
先日、新宿に初めて出来たシネコン、バルト9に行った。チケット売り場に着いたのは上映開始15分前。平日の昼間だったが、学生達が行列をつくっていた。見ると受付四ヶ所のうち、二ヶ所しか稼働していない。時間はどんどん経つ。結局、上映時間を5分過ぎてやっとチケットを購入。ポップコーンを買ったりして、座席についたのは予告篇も終わりかけた頃だった。
場内はがらがらで、改めて腹が立ってきた。上映開始15分前に到着すれば、余裕で観られたはずである。複数の映画館の座席を一ヶ所で決めるため、時間はかかるは効率は悪いは。それにしても、どうして二ヶ所しか稼働していないのか。人件費の削減か、バイトが見つからないのか。週末に家族で行く郊外ではともかく、都心では不便極まりないシステムである。
それなのに、一度シネコンが時流ということになると、どこもかしこもシネコン。最近はシネコンにならって、普通の映画館でも入口で座席を決めるところが出てきた。入ってみれば観客はパラパラだったりして、どういう意味があるのか理解に苦しむ。そもそもアメリカの郊外で始まったシステムを、どうしてそのまま日本に移植するのか。
何よりも万事システムで動いて、個人の裁量がきかないのが最大の難点だ。考えてみると、こういう場面が増えているのである。スターバックスコーヒーも、ある意味でそうだ。スタバが出来た当初、中高年はなかなか入らなかった。システムに馴染めなかったからだ。コーヒー一杯飲むのにもシステムを理解しなければならないことに、「融通の効く」社会で育った中高年は戸惑ったのである。
気がついてみれば、世の中すっかりシステム依存社会になっている。理由は、混乱とリスクの回避。ハプニングを恐れる日本人の気質に合致したらしく、個人の裁量範囲は狭まる一方だ。
万事システムで動くから、個性も考える人間も必要ない。本当は功罪を踏まえた上で、人間がシステムを使いこなしていかなくてはならないのだが、そんな力量のある人間は滅多にいないし、そういう人間を育てる教育にはなってはいない。そういう問題意識さえ共有されていないのである。
かくして、私たちはシステムに振り増されながらも徐々に適応し、社会で生きていくということはシステムに適応することと同義になる。70年前にチャップリンが「モダンタイムス」で描いた状況が洗練されると、こういうことになるわけだ。
2007年05月03日
「バベル」女子高生の制服が広げる性的イメージ
☆ このブログでは、映画のお薦め度をキーワードで示しています。
キーワードは「考えさせる」「元気がわく」「役に立つ」「視野が 広がる」「楽しめる」です。
「考えさせる」「「役に立つ」「視野が広がる」
アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ。知るヒトぞ知る、通好みの監督である。その監督の映画に無名の日本人女優が出演し、アカデミー賞にノミネートされた。そのために話題作としてGWに公開され、スカッとしたハリウッド映画が好きな人も観に行くことになり、一部で大ブーイングを浴びている映画である。
モロッコ、メキシコ、日本の三つの国で起きる物語が、時間的に前後しつつ進む。全体として、富める国の傲慢さが体感できる映画だ。同じメキシコを描いても、アメリカ人とメキシコ人とではこうも視線が違うのかと驚かされる。画面から肌触りまで伝わってくる。総じてアメリカを相対化した視点が秀逸で、それが高評価につながったのだろう。
問題は日本のエピソードである。出て来るのは高層マンションや渋谷。そしてクール・ジャパンの若者たちだ。菊地凛子演じる聾唖の女子高生は、精神にダメージを受けているがゆえに、奇怪な行動をする。非難のほとんどはここに集中している。
確かにあり得ないほどひどい内容で、日本女性としてはここまでして欲しくなかったし、脱げば体当たり演技なのかという疑問もある。また、どの批評家も当たり前のようにこの部分を肯定し、全く触れていないのにも違和感がある。本当に何とも感じていないのだろうか。
しかし、日本の女子高生がこう描かれるのも無理はない。あの短いスカートは異常だ。それを社会が容認・・・というより商品化し、商売のネタにしている。性的にルーズな行動を引き出す要素として使われても仕方がない。
この描き方を怒っている人も、モーニング娘。が女子高生の制服をベースにしたミニスカートで踊っている様子を、何なく受け入れているはずだ。そういう私たちの社会を、客観的に見るいい機会である。モロッコのエピソードも、モロッコの人が観ると不快なのではないかと思う。
監督:アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ 20006年メキシコ映画 配給・ギャガ
キーワードは「考えさせる」「元気がわく」「役に立つ」「視野が 広がる」「楽しめる」です。
「考えさせる」「「役に立つ」「視野が広がる」
アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ。知るヒトぞ知る、通好みの監督である。その監督の映画に無名の日本人女優が出演し、アカデミー賞にノミネートされた。そのために話題作としてGWに公開され、スカッとしたハリウッド映画が好きな人も観に行くことになり、一部で大ブーイングを浴びている映画である。
モロッコ、メキシコ、日本の三つの国で起きる物語が、時間的に前後しつつ進む。全体として、富める国の傲慢さが体感できる映画だ。同じメキシコを描いても、アメリカ人とメキシコ人とではこうも視線が違うのかと驚かされる。画面から肌触りまで伝わってくる。総じてアメリカを相対化した視点が秀逸で、それが高評価につながったのだろう。
問題は日本のエピソードである。出て来るのは高層マンションや渋谷。そしてクール・ジャパンの若者たちだ。菊地凛子演じる聾唖の女子高生は、精神にダメージを受けているがゆえに、奇怪な行動をする。非難のほとんどはここに集中している。
確かにあり得ないほどひどい内容で、日本女性としてはここまでして欲しくなかったし、脱げば体当たり演技なのかという疑問もある。また、どの批評家も当たり前のようにこの部分を肯定し、全く触れていないのにも違和感がある。本当に何とも感じていないのだろうか。
しかし、日本の女子高生がこう描かれるのも無理はない。あの短いスカートは異常だ。それを社会が容認・・・というより商品化し、商売のネタにしている。性的にルーズな行動を引き出す要素として使われても仕方がない。
この描き方を怒っている人も、モーニング娘。が女子高生の制服をベースにしたミニスカートで踊っている様子を、何なく受け入れているはずだ。そういう私たちの社会を、客観的に見るいい機会である。モロッコのエピソードも、モロッコの人が観ると不快なのではないかと思う。
監督:アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ 20006年メキシコ映画 配給・ギャガ

