2009年06月20日

「ヴィヨンの妻」「人間失格」・・太宰作品、次々に映画化

 生誕100年。バブルの頃は、このまま忘れられていくかと思われた太宰治。ここに来て人気が再燃している。ユニクロとコラボしたりしているモデルの押切もえでさえ、愛読書として「人間失格」を上げる今日この頃である。
 
 太宰治は今の時代の気分に合っている。新自由主義と自己責任論でズタズタにされた日本人の心に、「人間失格」という言葉が響くのだ。生まれ故郷でお披露目された銅像は、うつむき加減。除幕式に来ていた若者は、「こういう人が日本人でよかった」と述べていた。

 この静かな太宰人気に目をつけたか、ジャニーズ事務所の生田斗真主演で映画化が決定した。実は太宰作品は5月に「斜陽」、秋に「ヴィヨンの妻」と「パンドラの匣」が公開される。次々に映画化されているのだ。理由の一つは人気に加えて、制作費があまりかからないからと言われている。
 
 このうち、恐らく観るに値するのは「ヴィヨンの妻」ではないだろうか。根岸吉太郎監督、浅野忠信主演だからである。ただし、妻役が松たか子なのが残念だ。興行的成功を考えると、どうしてもこういうキャスティングになる。
 
 一番ひどいのは「パンドラの匣」だろう。何しろ川上未映子主演である。昨年「乳と卵」という何の変哲もない小説で、なぜか芥川賞を受賞したミュージシャン(らしい)。若くて、ちょっと見栄えのする容姿がウリ。露骨なマーケティングだ。
 
 しかもその後、同じ理由で中原中也賞や与謝野晶子賞まで取った。そろそろ短歌でも始めようかと思っていた私だが、アホらしくなってやめた。今度は映画に主演だなんて、いい加減にしてもらいたい。まぁ、悪いのは本人というより製作委員会なのだが。
 
 映画界も東野某や福井某の小説ならともかく、太宰治の小説はもっと丁寧に映画化してたらどうか。こうやってどんどん食いつぶしていったら、もう後がないのだから。そんな安易なことばかりしていると、ジリ貧になること間違いなし。
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2009年06月02日

新宿歌舞伎町のジョイシネマ閉館:失われる映画鑑賞の多様性

 新宿歌舞伎町の映画館、ジョイシネマ三館が閉館した。昨年末のコマ劇場閉館に伴って、同じ東宝系の新宿プラザ劇場などの二館が、今年四月には近くのトーアが既に閉館していた。新宿プラザやトーアは正直、今どきよくもっているなと思うような映画館だったが、ジョイシネマまで閉館したことには驚いている。

 だが、考えてみればそれは時間の問題だった。新宿三丁目の東映がバルト9になった後、昨年には靖国通りのピカデリーがシネコンになって、ほとんど一人勝ちの様相を呈していたからだ。駅から近く一階に無印良品があり、広々としたフロアや6ポイントで一回無料になるシステムは、他の追随を許さない。

 私はこのニュースを聞いて思わず、知り合いの配給会社代表に電話してしまった。彼が言うには、ピカデリーのシネコン化でバルト9が苦境に陥っているという。また、新宿で一人勝ちしているピカデリーを経営する松竹も、全体では苦しい状況にあるらしい。

 ここ暫く日本映画に資金を提供していた銀行投資会社も手を引きはじめ、製作本数が減るのは必至。多くのスクリーンを持つシネコンは作品不足を補うため、今までアート系ミニシアターで上映していたような映画を、今後押さえにかかる可能性が高い。となると、アート系ミニシアターが作品を確保できず、苦境に陥ることが考えられる。

 こうして、強いものが弱いものを押しつぶしていく。そもそもピカデリーが一人勝ちしていては、新宿全体の地盤沈下につながらないか。食べ物は高いし、チケット売り場は長蛇の列で、入口で座席を決められてしまう。メールで予約を入れられるという便利さはあるが、システム全体の自由度は下がっているのである。上映時間ぎりぎりに飛び込むこともできなくなった。これに文句も言わないなんて、与えられたシステムに対する過剰適応である。

 そもそも、都心までシネコンばかりにする必要があったか。映画鑑賞における多様性は失われるばかりだ。日本で一番アート系ミニシアターが多い映画の街・渋谷でも、東急がシネコンを計画しているらしい。今さら何を考えているのだろうか。多様な文化を提供しようとする志と多様な文化を享受する権利を、どうやって維持したらいいのだろう。
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2009年05月16日

「グラン・トリノ」中国残留日本人孤児二世の苦境を連想

 いま上映中の「グラン・トリノ」。配給会社がマスコミやネットで流している情報は、次のような内容だ。「朝鮮戦争に従軍した経験を持つ頑固な老人が、隣に越してきたアジア系移民と交流する中で、みずからの偏見に向き合っていく」。

 それで私は、良心的で地味な映画という印象を持って観にいった。ところが実際は、地味というよりも深刻な物語なのである。この映画で観客が目にするのは、社会に居場所が見つけられずに脱落したマイノリティーの若者が、真面目に生きようとしている仲間を引きずり降ろそうとする様子だ。

 私は思わず、中国残留日本人孤児の子どもたちのことを考えた。親と一緒に日本に来た彼らの一部は、学校システムからこぼれ落ち、三十代になった今、暴力団となって中国人を傷つけているのである。彼らが不登校になった時、日本人は今日を予想して真摯な対応をすべきだった。

 クリント・イ−ストウッド演じる主人公の老人は、チンピラになった同じ民族の若者に絡まれる隣家の少年を助けるため、過去や人生の全てを賭けた芝居を打つ。長い人生で経験して得た智恵の全てを振り絞って、窮地に陥った少年を救おうとするのである。それはかつて朝鮮の戦場で、少年と同じような年頃の敵兵を殺した老人にとって、贖罪でもあった。

 当初、老人が見せる頑迷さに私は、20世紀半ばからアジアで軍事的存在感を誇示しつづけてきた、アメリカの姿を重ね合わせて観た。老人が行った選択は個人の小さな行為かもしれないが、少年の人生に決定的な影響を及ぼすだろう。個人の生き方の集積が、いつか大きなうねりになることを信じたい。意外に観客が多くて嬉しかった。
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2009年05月07日

「レッドクリフpart2」なりふり構わぬ大宣伝

 『レッドクリフPART2』と『グラン・トリノ』。話題作二つを観て、映画の宣伝について考えさせられた。まず『レッドクリフ』から見てみよう。

 この映画にはPART1の時から、何よりもまずタイトルに不満がある。漢字圏の新しいアクション映画としてよく出来ているのに、『レッドクリフ』というタイトルでは斬新さが出ない。イメージも沸かない。タイトルはイメージが膨らむものではなくてはいけないのに、全くセンスが悪い。

 もっとも、これはどの映画についても言えることだ。最近の洋画は、原題をそのままカタカナにしただけだ。邦題にしたからといって、全てしっくりくるわけではないだろうが、カタカナにしただけというのも能がない。ケースバイケースで、最良のタイトルを考えてもらいたいものだ。

 『レッドクリフ』の場合は、原題の『赤壁』のままでよかった。中国映画に違和感がある層をも取り込もうとしたのだろうが、ハリウッド映画のふりをするなんて姑息だ。それに今さらこんなことを言っても、業界関係者から相手にされないだろうが、なりふり構わぬ宣伝も下品である。アニメ化したキャラクターを並べた公式サイトも子ども騙しで、観客のレベルをとことん低く見ていることがわかる。

 いま映画界では、テレビでがんがんCMを流しコンビニその他と提携し、とにかく知名度を上げて映画に詳しくない人々にアピールするのが、ヒットの法則になっている。『踊る大捜査線』のやり方が、成功例として踏襲されているわけだ。業界コンサルタントを自称する人間が平然と、「映画を知っている人間は相手にするな」と言い放っているのである。

 テレビに加えて、ネットや携帯ゲ−ムにまで娯楽市場のシェアを奪われている状況下、数字を上げたい気持ちもわからないではない。しかし、こんなやり方では熱心な映画ファンの気持ちは離れてしまうだろう。観客層の中心にいて、いい映画を待ち望み、数あるエンターテイメントの中から敢えて映画を選んで観にくるコアな観客をもっと大事にしないと、いつか後悔することになる。


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2009年04月03日

映画「ジョン・ラーベ」の公開を望む!

 「南京の真実」の著者、ジョンラーベの奮闘を描いた映画「ジョン・ラーべ」が、ドイツに続き中国で公開される。ベルリン映画祭でも好評を博した映画だが、日本公開がまだ決まっていない。 一部では、断念したという情報もある。

 南京事件が背景になっているが、日本の残虐行為を告発する映画ではない。ジョン・ラーベは、言わば「中国のシンドラー」だ。この映画は、「困難な状況下で行なわれた人道的行為を描いた作品」(監督の言葉)なのである。蛮行をやめさせようとする日本人士官も出てくる。架空の人物だが。

 ヨーロッパの実力派俳優の他、日本からは松井司令官役に柄本明、朝香宮鳩彦親王役に香川照之、 若い士官役にARATA(架空の人物) などの、個性派が出演している。 お金をかけたハリウッド的なつくりだそうで、 純粋に映画として面白そう。 それなのに配給先が決まらないのは、「靖国」のトラウマだろうか。 興行的にも充分いけると思うのだが。

 そこで、知り合いが公開を求める署名を始めた。 このサイトは友人に紹介できる機能もついているので、 皆さん是非よろしく。 http://www.shomei.tv/project-897.html

予告篇はこちらhttp://kino-zeit.de/filme/trailer/john-rabe
関連記事:ただし、上映禁止というのは事実誤認だろう。

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2009年03月12日

「花の生涯 梅蘭芳」揺れるチェン・カイコー(陳凱歌)

 四方田犬彦氏が酷評しているチェン・カイコー(陳凱歌)の新作、「花の生涯 梅蘭芳」を観てきた。チャップリンを驚嘆させた京劇最高の女形、梅蘭芳の物語だ。上映館は新宿ピカデリーのみ。十分前に着いたのだが、シネコンだからチケット売り場が長蛇の列。

 予告篇も終わりそうな時間にやっと順番が回ってきて、千円札を一枚出したら、「特別興行につき、二千円となっております」と言われて絶句。そうだったのか。一館だけで先行上映し、それを観にくるコアなファンなら、二千円でも観るだろうという算段か。思わず「すごいビジネスですね!」と言ってしまった。

 一瞬やめようかと思ったが、鑑賞スケジュールが狂うし、また時間をつくるのも大変だし。「あと一分ほどで本編が始まります」と言われて、条件反射で千円札をもう一枚出し、後は七階までエスカレーターを駆け上る。汗だらだら。飛び込んだとたんに始まってしまい、持ってきたお茶お菓子も出すチャンスを逸した。これ、けっこう楽しみだったのだが。

 で、四方田氏は酷評していたが、私はかなり気に入った。とにかく美しいのである。大衆演劇の若きスターである早乙女太一が、「指先まで美しい映画」と言っているが、その通り。再現された北京の街も中国服も美しい。チャン・ツイィー(章子怡)演じる女優とのラブロマンスがなければ、テーマが分散しなくてもっと良かったと思う。

 しかし、それがセールスポイントの一つになっているのだから、仕方ないか。彼女の知名度と人気が、商業的に必要だったのだろう。だが作品の統一感から言えば、ああいうビッグネームを使わない方が良かった。欧米でも通用する、チャン・ツイィーのグローバル経済向きの容貌が、物語世界を壊している。この映画の持つ美しさと彼女の美しさとは、質が違うのである。

 この映画の本当の主人公は、梅蘭芳の義兄弟となり、マネージャーとなる邱如白 (チウ・ルーパイ)だ。代々官吏を出している家柄で、洋行帰りの近代化論者。それが梅蘭芳の舞台を見て一転。地位も名誉も捨てて、人生を梅蘭芳に賭けるのである。大恐慌のアメリカに乗り込んで公演を成功させ、日中戦争が始まると、「たとえ日本軍に利用されても舞台を捨てるな」と、必死に訴える。ここで私は落涙。この俳優、スン・ホウレイ(孫紅雷)に注目である。

 チェン・カイコーは梅蘭芳に、表現者としての迷いと苦悩をだぶらせているようだ。この映画はここ十年の、チェン・カイコーの迷いと苦悩の告白である。今この時代の中でいかに生きるべきか。文革世代で不器用で、時流に乗れないチェン・カイコーは揺れている。中国も揺れている。アイデンティティーが揺れているように見える。

 冒頭、新しい京劇をめざす梅蘭芳は、師匠と対決して観客の支持を獲得。勝負に負けた師匠は静かに消えていく。古い中国は退場していくのである。改革を掲げた梅蘭芳は成功の道を突き進む。だが師匠の最後の言葉が、時折よみがえってくるのである。悩める梅蘭芳が、私には立ちすくむチェン・カイコーと重なって見えた。
公式サイトはこちら(音が出ます)http://meilanfang.kadokawa-ent.jp/
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2009年02月19日

「ユッスー・ンドゥール 魂の帰郷」奴隷にされた人間たちが伝えた音楽の系譜

 ユッスー・ンドゥールは、セネガルが生んだ世界的なミュージシャン。最近では、ホンダのCM曲「オブラディ・オブラダ」を歌っていた。2004年にはアルバム「エジプト」で、グラミー賞を受賞している。グリオと呼ばれる語り部の家に生まれ、明確な意識を持って音楽活動をしている。アフリカを代表するミュージシャンの一人だ。

 アフリカの音楽は、奴隷を通してどうアメリカに伝わったのか、ンドゥールは一流ミュージシャンとセッションをしながら、その系譜をたどる旅をする。同行するのはチュニジア生まれで、視覚障害を持つスイス人ピアニストのモンセフ・ジョヌ。
 
 圧巻なのは、多くのアフリカ人が奴隷として送り出されたゴレ島の「帰らずの扉」で、アメリカのアフリカ系ミュージシャンたちが歌うゴスペル。300年続いた奴隷貿易で、1500万人以上がアメリカに送り出され、600万人が命を落とした。その事実を、生きている限り語り続けるという老人が、その歌にじっと耳を傾ける。

 久しく忘れていた音楽の持つ偉大な力を、まさに覚醒するような思いで確認した。ただの自己表現でしかない音楽は、すぐに消える。文化は社会に根ざしていることが必要なのである。そういう音楽は本当に少なくなった。

 とにかくンドゥールの歌声が素晴らしく、あまりの心地よさに心身共にリラックス。不覚にも一時、睡眠状態に入ってしまった。何しろこういう歌なのである。「俺の鹿を見なかったか 俺の牛を見なかったか 一さぁ緒に歩いていこう」。イメージが頭の中でくるくる回転して広がり、目を開けていられなかったのだ。渋谷のシアターN渋谷にて。
公式サイトはこちらhttp://www.alcine-terran.com/youssou.html

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2009年02月14日

「ジョン・ラーベ」ベルリン国際映画祭で上映される

 開催中のベルリン国際映画祭で「ジョン・ラーベ」が上映された。「南京の真実」の著者で、日本軍占領下の南京で住民を保護しようとした、ドイツ人ジョン・ラーベの物語だ。

 ジョン・ラーベはシーメンスの支社長として、三十年近くを中国で過ごした。日本軍が迫る南京から一度は脱出しようとするが、中国人を保護しようとする欧米人たちを見て、自分もとどまる決意をする。

 撮影が中国で行なわれている時、ドイツ人監督は「Newsweek」の取材に答えて、こう述べている。「この映画は、困難な情勢の下で行なわれた人道的行為を描くものだ」。

 客観性を期するために、蛮行をやめさせようとする若い日本軍将校も登場させている。この映画への出演を、何人もの日本人俳優が断ったそうだ。それでも香川照之、柄本明杉本哲太、それに私の大好きなARATAなどが出演している。

 ジョン・ラーベは帰国後、同盟国日本に敵対する行為をしたとして拘束された。ナチ崩壊後、今度はナチ党員として連合軍から白眼視され、失意と貧困のうちに人生を終えている。

 映画自体はハリウッド的な作品で、ドイツでは概ね好評だという。それでも日本で上映される時はまた、騒ぎになるのだろうか。配給会社の腰が引けないことを願う。ドイツでは四月から公開。

 もう一つ、陳凱歌(チェン・カイコー)の新作、「花の生涯 梅欄芳」も上映された。戦前、日本でも絶大な人気を誇った京劇の名女形、梅欄芳の物語だ。久し振りに彼らしい作品なので、楽しみにしている。

 ただ、試写を観た四方田犬彦が産經新聞で「陳凱歌よ、どうした」と酷評している。失敗続きの陳凱歌に、周囲が二匹目のどじょうを狙わせた作品だと。どうなのだろう。

 「黄色い大地」で世界を驚かせた才能が、ジリ貧になっていくのは寂しい。北京オリンピック開会式の演出を担当した張芸謀(チャン・イーモウ)と、あまりにも差がついてしまった。こちらは3月8日から日本で公開。
画像はこちらhttp://info.movies.yahoo.co.jp/detail/typh/id332311/pidview001/or1

 
 
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2009年02月11日

「悲夢」韓国社会が生み出した歪んだ怪物

 キム・ギドクはアジア屈指の才能に恵まれている、韓国の鬼才である。しかし、韓国では人気がない。特に男性に嫌われているという。数年前、韓国で「グエムル 漢江の怪物」が大ヒットした時、その人気ぶりとポン・ジュノ監督を批判して物議をかもした。そしてそれを謝罪した後、こう述べたのである。「私は韓国社会が生んだ歪んだ怪物である」。

 キム・ギドクは強権的で抑圧的な父親に抑えつけられ、高校すら入れてもらえなかった。だから兵役に就いていない。兵役に就けないということは、高校にすら行けなかったということなのだ。韓国社会ではほとんど、人間失格である。だから敢えて、職業として軍人を選んだ。

 キム・ギドクのテーマは一貫して、抑圧とファンタジーである。それは時として、女性を徹底的に性的存在として描くような作品を生み出してきた。最近、作風が少し変わってきたようだが、根底に屈折がある点は変わらない。ただその複雑さは、欧米人にはわからないだろう。欧米で高く評価されて韓国で嫌われる。そこに日本人からみて、非常に興味深い問題がある。
 
 新作「悲夢」は、オダギリジョーとイ・ナヨンが主演している。オダギリジョーは日本語を話し、他の出演者はみんな韓国の言葉を話す。しかし、この物語にはもともと論理的整合性はないのだから、言葉の違いは気にならない。要はキム・ギドクの美学を受け入れ、その世界に入れるかどうかなのだ。

 監督の才能を楽しむ映画である。キム・ギドクが切り取る空間の美しさは、言葉では言えない。物語は発展したソウルマンションではなく、伝統的な瓦屋根の家で進展する。ハングルと漢字が混在し、仏像が置かれた不思議な部屋だ。月明かりの中に仏像が浮かび上がる夜景など、比類なき美しさだ。

 グローバル経済の中でもなお欧米化されない韓国が、キム・ギドクの作品にはある。それが欧米での人気を支えているのだろう。そう思う私の感覚は、やはり欧米化されているのだろうか。恐らく韓国人から見ると、キム・ギドクの描く世界は韓国が切り捨てたい部分につながっている。しかし、歪んだ怪物が生み出す世界は今、アジア全体の宝となりつつある。
公式サイトはこちら→http://www.hi-mu.jp/
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2009年02月07日

自動車産業の苦境とマルクス経済学

 自動車メーカーが苦境に喘いでいる。アメリカのビッグ3は連邦政府の支援を受けることになったし、日本の大手メーカーも軒並み業績予想を下方修正している。しかしまぁこういうことは、70年代に予想できたことである。

 好景気やエコカーの開発で一時的に持ち直すことはあっても、長い目で見れば自動車産業はもう成長しない。常識的に考えればわかることだ。新しい市場を求めて中国や南米、アフリカに進出しても、いつかは限界が来る。それなのに、ちょっと売れると人を増やしたりしてきたのだから、経営判断の誤りなんていうレベルではない。懺悔すべきである。

 自動車は20世紀の個人主義を支えた商品だ。それは人々を共同体と階級のくびきから解放し、他人に遠慮せずに自由に行動するという生活洋式をもたらした。その背景にあったのは物質的豊かさへの信頼であり、大量生産・大量消費・大量廃棄を是認し、それでもやっていけるという楽観主義だった。

 それが崩れた今、自動車産業が産業界の中心にいること自体が間違いなのである。70年代以降、緩やかに縮小していくのが自然だったのだ。構造改革はこういうところにこそ必要だ。ところがここは聖域らしく、誰もそれを口にしない。思考停止なのか、それとも遠慮しているのか、あるいは両方か。

 一方、時代の流れは「個人所有」から「共有」へと移行していくはずだ。そうしなくてはやっていけないのである。21世紀は共有の時代だ。シェアである。この感覚は今、人々の間に静かに広まってきている。それをわかりやすく理論化し意味づけをして、時代精神にしていくことが急務だ。

 もう一度、マルクスの思想を見直す時に来ていると私は思う。現実の社会主義国家やイデオロギーから離れて、思想としてマルクス経済学を検討しなおし、いいところを取り入れていくべきだ。もはやそういう時代である。

 個人所有と市場原理を絶対と考えていては、現状から抜け出せない。発想を変えないといけないのである。これを妨げているのは、共産主義への偏見と恐怖である。しかし多くの論者が、共産主義者や左翼というレッテル貼りを恐れてか、それを口にしない(その根本には、そもそもよく知らないという問題があるのだが)。

 しかし、そんな偏見は東西冷戦の遺産である。いつまでそんな過去にとらわれているのだろうか。いい加減、イデオロギーから自由になるべきだ。もっと自由にマルクスを読み、議論するべきではないか。疎外、物象化、人間の商品化。これらの言葉が、今ほど実感を持って迫ってくる時はない。

 個人所有と市場原理にがんじがらめになっていては、出口がない。一枚看板だった構造改革の欺瞞性はあばかれた。新しい哲学が必要なのだ。私たちは先達が積み上げてきた豊かな思想的遺産に、もっと目を開かなくてはならない。ただ残念なことに、大学と大学人は今、自分たちが生き残ることに必死で余裕がない。こういう事態を招いた元凶こそ、新自由主義なのである。 
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